寺田寅彦の「科学者とあたま」という作品をご存知でしょうか。
おそらくこのブログを読んでいる方の98%は知らないと思います。私も先日初めて読みました。
寺田寅彦は物理学者で作家です。
研究成果は私はあまりわかっていないのですが、文学での代表作は「とんびと油揚」ですね。こちらは聞いたことある人も多いはず。
「天災は忘れた頃にやってくる」というのも彼の発言だったという言い伝え?があるそうです。
彼は没後50年以上たっていますので青空文庫というパブリックドメインが多く公開されているサイトに色々な作品が載っています。
楽しいのでぜひ読んでみてくださいな。
そんな彼の「科学者とあたま」という作品を先日読んでいて、なんか謎解きの指南書みたいだなと思ったので紹介します。
ええ、突然の文学紹介ブログです今日は。
ははは驚いたか!
序盤はこうはじまります。
私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。
まあ、なんでこんなことになるのかと言うと「あたま」という定義があいまいだよね、と寅彦が言っています。
そうだよね。勉強ができることがあたまがいいのか、機転がきく事なのか…今でもわかってないですよね。
さて、寅彦は論理をうまくまとめるという物理学では必須の能力においては「あたまが良くなくてはならない」と言っています。しかしその論理で常識とされていることにも何かしら不可解な点を見つける事が「あたまが悪い人」しかできないのです。
また、「あたまの良い人」は足が速いのでわき道を見落としがちですが「あたまの悪い人」はわき道にはまり込んでいるうちに何かすごいことを発見するとも言っています。
そして、「あたまの良い人」は見通しがきくだけに実行する前から「無理じゃね」と思いがちだけど、「あたまの悪い人」はどうにかなるなる~と言って実際どうにかなったりする。
そして、「あたまの良い人」は自然現象を考えて考えてわからないと「自然が間違ってんじゃね」と言いだす。
しかし 頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。
といのです。
そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。
これ聞いているとそうか「あたまが悪い」方が良いのか…と思ってしまいますが、そうではなく、
やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
残念ながら「あたまが良い」のは大前提でした。
ああ、残念。
これは何かしらの研究職の人は思い当たると思うことだし、私も仕事の上で確かにそうだなと思うことがたくさんありました。
そして何より「謎解きだでもそうだな」とも。
つまりあたまが良い…謎が解けるのは前提で、それでも色々わき道に行ったり、変なこと考えたり、変なことしてみたり…と言うのが大切じゃないですか。
そう、これを読んで私は「 科学って謎解きと同じだったんだー!」と思ったのでした。
そんな引用ブログでした。
最後に一つ。
頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。
だそうです。自然を恋人に…ということは私達は謎をこいび…深いですね…!!